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| ▲ 内海海岸にて |
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1958年5月26日生まれ。
愛知県名古屋市出身、48歳 |
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| 母親の実家が愛知県知多郡内海町の薬局で、小さい頃から泳ぎに親しんで育ちました。 |
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| ▲亀島小学校入学式 |
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| 1965年、名古屋市立亀島小学校に入学 |
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| 「松」「竹」「梅」というユニークな名前をクラスにつけている小学校で、5,6年と水泳部に所属、中日スイミングクラブから全国大会にも出場しました(全国リレー大会で3位)。全国で2番目の小学校、アマチュア無線局を指導の先生の元、仲間と開局したのは6年生のとき。 |
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| 1971年、名古屋市立笈瀬中学校に入学 |
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| 市内でも有数のワンパク(?)校でしたが、ユニークな仲間ばかりで、楽しい3年間を過ごしました。今でもみんな手弁当で応援に来てくれる仲間。もちろん、部活は水泳部に所属。3年生の時、名古屋市大会で100メートル・自由形の2位に入りました。 |
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| ▲ロサンゼルスでホームステイ |
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| 1974年、愛知県立千種高校に入学 |
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| 学校群制度の2期目でしたが、思い切って偏差値の高い郡を受験。おかげで、三年間成績は後ろから数えたほうが早く苦労しました。でも、かけがえのない友人を得、また初めて外国へ行ったのは一年生の時の夏休み。もちろん部活は水泳部所属。 |
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| ▲学生インストラクターを勤める |
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| 1978年、上智大学法学部法律学科に入学 |
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一年浪人生活を送って、現役の時には一校も受けなかった東京の大学に入学。人生というのは不思議ですが、高校3年生の時に、北杜夫さん、遠藤周作さんを読んで旧制高校にあこがれ、東北か北海道の大学に行きたいと思っていたのですが、浪人中どうしても東京に行きたいと思うようになりました。
在学中所属したアスペンスキークラブでの活動は一生忘れられない思い出に。大学3年時は若林プロスキースクール、4年生時は天元台スキースクールで学生インストラクターをやり、オールソフィアスキー大会・基礎の部で二回の優勝を果たす。なお、元郵政大臣・野田聖子さんとはこの時の同級生。 |
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| 1981年、中国北京語言学院留学 |
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| 何と言っても忘れられないのが、大学を休学しての中国への1年半の留学。語学の習得はもちろん、他国からの留学生との交流、中国国内だけでなくシベリア鉄道を使ってロシア(当時ソ連)、ヨーロッパをまわった経験は私にとって多くのことを教えてくれました。 |
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| ▲北京語言学院の正門で |
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| ▲シベリア鉄道でヨーロッパへ |
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| 大学卒業後、中日新聞に入社 |
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| 文化事業局に所属し、名古屋デザイン博ガウディの城、ぎふ未来博山東竜館、黄河文明展などを手がけました。最後の仕事になったのは、「パウル・クレー展」ですが、スイスのベルンに出品作品の交渉にいったりと準備を進めていたのですが、実際の展覧会の時は既に新聞社を離れており、複雑な気持ちでした。 |
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| 1993年1月、同新聞社を退社、国政参加に向けて活動開始 |
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入社して十年たったら自分の生き方を(決して会社を離れるということではなく)考えようと思っていました。ところが、9年目のこの頃、日本新党ができて日本の政治が大きく動き出したこと、亡くなられた中日新聞社・加藤巳一郎会長のおともで約1週間の中国視察旅行をさせていただいた際、色々とお話を聞かせていただいたことなどがきっかけとなり、新聞社を離れて政治の世界へ入る決意をしました。もちろん、父親が政治家(名古屋市議)だったことも大きな影響がありました。
ただ、多くの先輩・同僚・仲間の皆さんにご迷惑をおかけしましたし、離れると決めたときの高まった気分と、ある日突然会社に行かなくなり、かといってどんどん具体的に行動が出来るわけでもなく、一人でぽつんと残されたような感じになったときのギャップの大きさはかなりつらいものがありました。
尊敬する武村正義代表との間をとってくださったのは、亡くなられた加藤巳一郎・中日新聞社会長でした。「環境主義」「民権政治」「行政改革」今も大切にしている理念の原点がここにあります。 |
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