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こんちゃんはこんな人
略歴
父親の背中をみて

決して裕福でない9人兄弟の長男として生まれた父、近藤昭夫は高校卒業後、一旦は国鉄に勤めますが、「大学で勉強したい」という思いを断ち切れず、書生をしながら大学へ通いました。そして、鹿島建設で数年働いたある年、「裕福でないと大学へさえも通えない。誰もが平等になれる社会をつくりたい。人々のためにがんばりたい」と政治の世界に飛び込みました。「地盤も看板もカバンもないやつが当選できるはずがない」と多くの人が嘲笑する中での決意でした。そんな父が、九期三十六年間も名古屋市議会議員を勤めることができたのは、多くの支援者の皆さんのおかげはもちろんのこと、父の「社会のためにがんばりたい」という強い信念のたまものであったと思います。

その父は、2007年11月2日に亡くなりました。最後の最後まで私のことで心配をかけました。亡くなる直前には、ベッドから私の国会質問の放送を見て、「昭一、これからは、こうしろよ!」と助言をくれました。2週間前には私の会合に顔を出していましたから、本当に突然のことでした。自らの後継者であった弟・たかあきを失ってからの、最後の4年間は本当につらかったと思いますが、最後の最後までやさしい親父でした。

 
決してあきらめず、最後までやり通す
大学時代は、同好会「アスペンスキークラブ」に所属していました。
 入部したときは一番ヘタクソでしたが、ひたすら練習に打ち込み、がむしゃらに上手な人の滑りを頭の中に焼き付けました。リフトが止まった後も山を登っては繰り返し練習に打ち込み、時には、夕日の沈みかかる山々に向って「バカヤロー」なんて叫んで、青春していました。
そして、大学3・4年の時は努力の甲斐あってオールソフィアスキー大会基礎の部で連続優勝を果たすことが出来ました。嬉しかったです。やればできる!と思いました。決してあきらめず、一歩一歩努力をしていくのが近藤昭一のやり方です。
 
信念を曲げず、されど柔軟に
自分の信念は決して曲げません。しかしながら、相手の立場・意見を尊重し、話をじっくり聞きながら重要なところは取り入れ、必要なときには自分の過ちも認めます。そんな剛直でありながら柔軟な姿勢で、2回にわたる野党環境委員会筆頭理事としては、よりよい法案審議のため現地調査の企画・調整や、法案に対する付帯決議の取りまとめに奔走しました。かつての環境教育推進基本法成立の際には与野党間のやりとりで粘り強く取りまとめに努力し、2003年の本会議における温暖化対策決議文や水俣病公式確認50年の際(2006年)の国会決議文の採択では大きな力を発揮しました。
 
器用な手先とアイディアの持ち主
子どもの頃はおもちゃのプラモデル作りが大好きでした。完成した時の達成感もさることながら工夫を凝らしどうやればもっといい作品になるかと試行錯誤しながら一つ一つ組み立てていく作業が楽しかったです。その豊かな発想とアイディアは、近藤昭一の作成するポスターやリーフレットづくりに活きています。
 
議員として当たり前のことを実現するために

『道は必ず開ける』 平成5年に中日新聞を退社した時に、誰もが「無理だから止めなさい。勝てるわけがない」と心配してくれました。しかし、有権者の方を向いていない政治をこれ以上許しておけませんでした。選挙直前に、両親が暮らし私自身も生まれ育った中村区を離れ、愛知3区(昭和・緑・天白区)へ移って立候補しましたが、時代と多くの皆さんが私のような者を必要としてくださったのでしょう。当選させていただくことができました。うれしかったです。がんばれば必ず道は開けると思いました。あれから12年以上が経ちました。議員というものは、皆さんの一票一票で選ばれています。ですから今現在国会でどんなことが起きているのか、近藤昭一はそれに対してどう考え行動しているのかをリアルタイムで皆さんに報告しなくてはならないというのが私の考え方です。そんなごく当たり前のことを実現するために

  1. 街頭活動
  2. 会報の発行(2ヶ月に1度)
  3. つれづれ日記
  4. メールマガジンの発行
  5. 国政報告会の開催などを行っています。
    街頭演説は2008年10月2日に1170回を数えました。これからも愚直に初心を忘れず活動してまいります。
 
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