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略歴

1958年

5月26日生まれ。愛知県名古屋市出身

母親の実家が愛知県知多郡内海町の薬局で、小さい頃から泳ぎに親しんで育ちました。
亡くなった父親は「そのうち、内海へ移って、ゆっくり暮らしたい」が口ぐせでしたが、豊かな自然の同町は、私のある種の「原点」です。


▲ 内海海岸にて

1965年

名古屋市立亀島小学校に入学

「松」「竹」「梅」というユニークな名前をクラスにつけている小学校で、5,6年と水泳部に所属、中日スイミングクラブから全国大会にも出場しました(全国大会リレーの部で3位)。全国2番目の小学校・アマチュア無線局を指導の先生のもと、開局したのは6年生のとき。木造校舎に裸電球、プールは20メートルしかない貯水槽を兼用した素朴な学校でした。


▲ 亀島小学校入学式

1971年

名古屋市立笈瀬中学校に入学

市内でも有数のワンパク(?)校でしたが、ユニークな仲間ばかりで、楽しい3年間を過ごしました。今でもみんな手弁当で応援に来てくれる仲間。もちろん、部活は水泳部に所属。3年生の時、名古屋市大会で100メートル・自由形の2位に入りました。
この頃、名古屋市とロサンゼルス市の友好関係で、アメリカ人の高校生のホームステイを受け入れました。私にとっては、有意義な出会いでした。

1974年 3月

名古屋市立笈瀬中学校卒業

1974年 4月

愛知県立千種高校に入学

学校群制度の2期目でしたが、思い切って偏差値の高い郡を受験。おかげで、三年間成績は後ろから数えたほうが早く苦労しました。でも、かけがえのない友人を得、また初めて外国(米国ロサンゼルス)へ行ったのは一年生の時の夏休み。もちろん部活は水泳部所属。
高2の学園祭では、「ジャズカントリー」という劇で主役の「トム」を演じました。


▲ ロサンゼルスでホームステイ

1978年 4月

上智大学法学部法律学科に入学

一年浪人生活を送って、現役の時には一校も受けなかった東京の大学に入学。人生というのは不思議ですが、高校3年生の時に、北杜夫さん、遠藤周作さんを読んで旧制高校にあこがれ、東北か北海道の大学に行きたいと思っていたのですが、浪人中どうしても東京に行きたいと思うようになりました。在学中は、大学3年までは吉祥寺に、留学から帰ってきて4年時に中野坂上に住みました。
在学中所属したアスペンスキークラブでの活動は一生忘れられない思い出に。大学3年時は志賀高原の若林プロスキースクール、4年生時は山形県の天元台スキースクールで学生インストラクターをやり、オールソフィアスキー大会・基礎の部で二回の優勝を果たしました。なお、元郵政大臣・野田聖子さんとはこの時の同級生です。


▲ 学生インストラクターを勤める

1981年 9月

中国・北京語言学院留学

何と言っても忘れられないのが、大学を休学しての中国への1年半の留学。語学の習得はもちろん、他国からの留学生との交流、そして、パレスチナからの留学生が、イスラエルとの紛争が激化してきた際に本国に呼び戻され、彼らの壮行会が行われた時のことは、私に「平和」というものを考えさせてくれました。また、中国国内だけでなくシベリア鉄道を使ってロシア(当時ソ連)、ヨーロッパをまわった経験は私にとって多くのことを学ぶ機会となりました。


▲ 北京語言学院の正門で


▲ シベリア鉄道でヨーロッパへ

1984年 3月

上智大学法学部法律学科卒業

1984年 4月

大学卒業後、中日新聞に入社

文化事業局に所属し、名古屋デザイン博ガウディの城、ぎふ未来博山東竜館、黄河文明展などを手がけました。最後の仕事になったのは、「パウル・クレー展」ですが、スイスのベルンに出品作品の交渉にいったりと準備を進めていたのですが、実際の展覧会の時は既に新聞社を離れており、複雑な気持ちでした。

1993年 1月

同新聞社を退社、国政参加に向けて活動開始

入社して十年たったら自分の生き方を(決して会社を離れるということではなく)考えようと思っていました。ところが、9年目のこの頃、日本新党ができて日本の政治が大きく動き出し、亡くなられた中日新聞社・加藤巳一郎会長のおともで約1週間の中国視察旅行をさせていただいた際、色々とお話を聞かせていただいたことなどがきっかけとなり、新聞社を離れて政治の世界へ入る決意をしました。もちろん、父親が政治家(名古屋市議)だったことも大きな影響がありました。
ただ、多くの先輩・同僚・仲間の皆さんにご迷惑をおかけしましたし、離れると決めたときの高まった気分と、ある日突然会社に行かなくなり、かといってどんどん具体的に行動が出来るわけでもなく、一人でぽつんと残されたような感じになったときのギャップの大きさは、かなりつらいものがありました。
尊敬する武村正義代表との間をとってくださったのは、亡くなられた加藤巳一郎・中日新聞社会長でした。「環境主義」「民権政治」「行政改革」今も大切にしている理念の原点がここにあります。

1994年 11月

さきがけ愛知準備会代表として県支部設立のため奔走。


▲ さきがけ公認内定者発表の場で

1996年 9月

さらなる政治勢力の結集をめざして民主党入党。
同党愛知県連副代表に就任。


▲ さきがけ愛知準備会代表のとき父親と

1996年 10月

第41回総選挙で初当選

中選挙区から小選挙区制度への変更、新党さきがけから民主党への移籍、直前の選挙区変更(愛知5区から3区へ)と色々ありましたが、多くの皆さんのご支援で初当選させていただきました。こころから感謝しています。


▲ 第1回目の選挙の出陣式にて

2000年 6月

上第42回総選挙にて再選

2003年 11月

第43回総選挙にて三選

2003年 12月

民主党「次の内閣」環境大臣に就任

2005年 9月

第44回総選挙にて四選 衆議院青少年問題特別委員長に就任

2006年 2月

2009年 8月民主党愛知県連代表に就任

「選挙で国民の皆さんの審判を受けることこそ、政治改革への道」と、三つの大きな選挙で、積極的に候補者を擁立。32年ぶりの脱・相乗りの「知事選挙」、名古屋市会第一党維持と県議会大躍進の「統一地方選挙」、与野党逆転の参院第一党につながる選挙区二人当選の「参院選挙」を陣頭指揮する。

2007年 9月

衆議院外務委員会筆頭理事に就任

2009年 8月

第45回総選挙にて五選

鳩山内閣が成立し、政権交代が実現

2009年 9月

衆議院総務委員長に就任

2010年 9月

環境副大臣に就任

2011年 9月

衆議院環境委員会筆頭理事に就任

2012年 12月

第46回総選挙にて六選 衆議院懲罰委員長に就任

2014年 12月

第47回総選挙にて七選

2015年 1月

民主党幹事長代理に就任

2016年 9月

民進党副代表に就任

2017年 10月

立憲民主党副代表に就任 第48回総選挙にて八選

立憲民主党結党に参加し選挙を行った。


2019年

立憲民主党エネルギー調査会会長に就任

2021年10月

第49回総選挙にて九選

2022年9月

立憲民主党「次の内閣」ネクスト環境大臣(原子力問題) に就任。

  

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